用事で都内へでた帰りに駅前のケンタッキーに寄ったら、中学生と思しき男の子らがセルフレジに並んでいた。心なしか制服の肩の幅が合っていない。ローファーのかかとも余り気味。新入生かな。「君、いくら」「ぼく、六百円」とかいってトレーを受け取り、ほおを赤らめながら友だちの席へ歩いていく。この、なんてことない光景に、ぼくははっとしたのである。あれ、この感じ、うちの子と同じだな――去年の夏にハローしてから十ヶ月になる坊やが、リビングで遊んでいるのを眺めているときと同じ感覚になっていることに気がつき、おどろいたし、新鮮だったし、うれしくなったのである。
というのも、もし、坊やがこのくらいの年になったら、ぼくのことなんて嫌いになるのかもしれない、となんとなく思っていたから。カルチャーとか言いだして、ぼくにはわからない商業芸術をいじりだして――まあ、今もほとんどわからないんだけど――大人の世界に反抗して、パパのことなんて疎ましく思うのかなと思ってたから。だけど、もしそうなったとしても――もしそうなったとしても、こっちは変わらずおまえがかわいいんだい、と心で叫んでうれしくなったのである。
〈長くストリートで生きてきた自分には子どもがいないけど、この年になると、若い人たちがみんな自分の子どもみたいに愛おしく思える〉――『うらおもて人生録』という本にそんな一節があったんだけど(うろ覚え)初めて読んだとき、いい境地だなあと感じたのを思い出した。まさか夕方のケンタッキーフライドチキンで自分がそのゾーンに入るとは思っていなかったから、新鮮だった。家に帰ってきて奥さんに話すと、「たぶん、ずっとかわいいんだと思う」と彼女は言った。
書いてみて初めて気がついたこと。「もし、坊やがこのくらいの年になったら」――こんなふつうのフレーズも、書いてみると、心はけっこう震えてしまうのである。そんな未来が、ちゃんとあるんだなあって。
