道の端にヒールの修理を待つあいだ宙ぶらりんのつまさきを持つ
沖ななも
ふたたび、沖ななもさん。
みちのはに、と読むのがきれいなのかな。こういう散文からそのまま取り出したような短歌の詠み方はアプローチしやすい。ふつうに文章に書いたり、声にだしてみたことが、たまたま調子のいい三十一文字になっていたみたいな作り方。ずっと前から思っていたんだが、こういう自由な歌の世界で、詩になっているかどうか、短歌めいたモメンタムが生まれているかどうかってどういう風に鑑賞されるのかな。たとえば俳句だったら季語があるか、というルールで最初のチェックができるんだけど。同じ三十一文字が並べられたとしても、これは歌になっている、これはなっていない、という感覚のところ。この〈ヒールの修理〉について僕がいいなと思ったのは、ひとりで街中で靴を履いてないっていうおかしみがいいな、と思ったし、おかしいけどなんか寂しいみたいな、寂しさの芯みたいなものが成分としてあるような気がした。寂しさの芯。