友達の家

友達の家へ行ったら、むかし自分が作った本が飾ってあった。

やさしい人だと思う。ぼくは素直に手に取って開いてみたんだけど、アジビラみたいな紙が何種類も挟んであって、そういえばこんな感じだったか、と思い出し、なぜか新鮮に感じた。懐かしいという感覚ではない。状態のいい本で、印刷所から届いたばかりといった風情。二十五年も経ったら、あそこはもっとこうできた、なんてことは思わない。そんなこと覚えてない。ただただ、フレッシュである。なんだこれ、と驚いてしまう。内容もよくわからなくて、あきれてしまう。

ふざけた人たちが夢中で遊びながら作った本だと思う。そんな代物が、未だに古本屋さんの業務をわずらわせているのかと思うと、心底申しわけない気分になる。懲りずに十年くらい経ったらまた別の本を作っていることにもびっくりだ。どうしてこうなっちゃうんだろう。

むかし、やけのはら君という友達に「すん君は面白いことしてくれるけど、やめちゃうんだもの」と言われたことを覚えている。言いたいことはわかるし、本当にごめん、と思う。でも、当たり前なんだけど、ぼくだってご飯をたべるためにやっていることはやめてない。

それは主にオンラインにまつわることで、つまり、紙の本を作ることにかんして言うと、ずっと素人である。久しぶりに手に取った本をめくっていたら、純粋な遊び、という言葉が浮かんだ。精神の排泄物、というワードも浮かんだ。いやそんなかっこいいものじゃなくて、もっと簡単にいうと、愚かである。まじでばかだなあ、あ、ぼくかと思った。

仕事をしていると、もしかしたら自分はすごく冷たい人間なんじゃないかと思うことがある。大事なものを裏切っているのかもしれないと感じたこともある。だから、友達の家に飾ってある本を見て、なんだか安心した。

友達の家に行って、古本やレコードの話をしてくつろぐ。こんなことができる友達も、今では少なくなった。かれは独身の編集者で、毎夜のようにだれかが訪ねてくるらしくて、この日は年の離れた女の子が前夜から泊まってそのまま猫を撫でて待っていた。こんなボヘミアン的生活をしている友達も少なくなった。かれは自由気ままに暮らしていた。

小風景