ニューヨークの地下鉄は、一日が台無しになりそうな厄介事が起きそうな予感がいつも漂っており、みんなの祝福や拍手喝采で幕を閉じそうな珍事に遭遇する望みは薄い。じっさい、けっこうな確率で物乞いがやってくるし、なにかの為に署名(と小銭)が要るから、これから車内を集めて回るから!と叫んでいる人もいた。そんなとき私はうつむくばかりである。多くの乗客が知らんぷりしている。物乞いらがいない時でも、私はそのうちだれかが暴発するのではないか、と心配している。けれども、みんなそんなに冷酷じゃないんじゃないか、とも思っている。知らない人に「その刺青いいと思う」と話し掛けている人もいたし、席の隣同士で気が合って二言三言交わしてから降りて行く乗客もいた。東京の地下鉄よりも随分張り詰めてはいるが、いざ事が起きたら力を合わせる準備はできている、そんな生真面目さも感じる。駅の様子は古めかしく、空調はよく効いていないから熱気がこもっている。車両も暗く感じるし、私の使っている路線では接続点に差し掛かると一瞬照明が消える。そこでまた息を飲むのだ。黙ってリネンやら保険やらの広告を眺めるしかない。ニューヨークの地下鉄の広告って、こんな言葉遣いなんだ、と思う。けっこう簡潔でストレートだと思う。ひねったような広告って、あんまりないかも。そこへいくと東京メトロの多彩さとまぶしさ。あのスーパークリーンな車内と高解像度のモニタ。遠く離れてから思い出すと、あれは夢だったんじゃないかと感じる。周囲に気を配りながら、ひそかに丸ノ内線や半蔵門線のことを考えている。目の前の風景と、私の好きな東京のずれに酔っている。