あれ、この写真大きいな。まあいいか。二日前にまた何かつかんだ気がしたのですが、〈〇〇の小風景〉という題名を付けてみると、日常の些細な観察についての小文が、なんだか俳句的なモーメントとして輪郭をもってくる感じがする。素材は、はっきりいってなんでもいいのですが、〈小風景〉というかわいらしい言葉のフレームに最初に入れてしまうことで、こういう表現をするときにつき纏う自意識の埃のようなものが、ちょっと払えるような気がする。ぼくは随分勉強したので知っているのですが、俳句という詩型にはたしかに、一七文字の内に心の媚びや主張といった煩わしい要素が入り込むことを許さない、潔癖さと軽さがある。もしかしたら、写真家の阿部さんが惹かれているのも、そこかもしれない。写真って、言葉よりもそういうものがはっきり表れてしまうことがある。なにも見ていない風情で、なにか見ている、その記録が、あとから見るとユーモラスな一枚だったらいちばんいい。俳句とは何か、それは〈挨拶〉と〈滑稽味〉なんじゃないかと、ぼくは思っているんだけど、だから世界にハローするってことで、その時のツールとして、詩の言葉ではなく散文を用いることができないか?というのが今の個人的な考え方なのです。