悔し涙

きのうは何日か前から楽しみにしていた会食の日で、前の夜になぜか催されたお菓子パーティーのせいもあって遅くに起きだした妻は、「準備をはじめないと遅れるよ」という僕の言葉にめずらしく大声で「十二時半になったら!」と答えた。鮮やかな赤いスカートを穿いておめかしして仕上げに鏡の前で化粧にかかったのを椅子に座って見ていたら、くるっとふりむいて歩み寄り「間に合わないから先に行ってほしい」と神妙な顔で言った。僕は間に合うから大丈夫、と答えた。じっさい、間に合うから。それから十三時を過ぎて先週届いたばかりのオリーブのジープコートを羽織って(僕は二〇年も着ているコート)ポストの郵便物をのぞいてから駅へ向かって歩きだし、七、八分もしたところで「あれ、あれ!」と彼女は、手さげ袋をさぐりながら酷い表情をした。「カードがない、キャッシュカードがない、どうしよう」と混乱した様子で、なぜか憔悴していて「ああ、もう!いれたのに!いれたのに!」とじだんだを踏んで泣きはじめた。(僕は現実に地団駄をふんでいる人を初めて見た…)率直に言ってまだ七、八分しか歩いてないので、戻っても間に合う。また、カードが無くても僕の持ち合わせがあるから事足りる。それでも車通りの多い交差点で小鬼みたいに顔を歪めて繰り返し地面を踏みつけているから、なぜそんなに泣くのかと訊ねたら「悔しいから」と答えた。僕はもしかしたら彼女は今日のことを楽しみにしすぎていて緊張していたのかもしれない、と思った。とにかく大丈夫だし、間に合うから落ち着いて、と引き返すよう促したら「あ、あった」とカーキベージュのナイロンの袋からピンクのクマの絵のキャッシュカードがあらわれた。率直に言って最初からある気がしていたし、なんとなくこのくらいのサイズの惨事が起きるような気がしていたから、早めに「準備をはじめないと遅れるよ」と言っておいたんだよね。これを直感と言う。

小風景